Thursday 15 February 2024

Coffee Shop

 


14.
1982
Coffee shop

  

14.

1982
Coffee shop

1982年
喫茶店


1979年、私は勤めていた全日制高校から夜間の定時制高校に転任し、和光大学人文学部人文学専攻科にふたたび入学し、文学科の川崎庸之先生のもとで仏教典籍を含む平安朝漢文学を学ぶこととなった。先生の勧めで、合わせて人間関係学科の西順蔵先生の中国思想史も受講し、東京外国語大学で現代漢語の初歩を学んだ日々からの一つの帰結をみずからに課すこととなった。

1971年3月に人文学部文学科を卒業したときに見い出せなかったみずからの主題を、32歳を目前に控えたこの年においても、私はまだ見い出せないでいた。ただ文学科在籍時に受講した中国文学の小野忍先生やロシア語の千野栄一先生にも再会できるだろうことで、私に新しい方向が見えてくるかもしれないというかすかな期待も持っていた。そして文学科当時はヴァレリーの講義を受ける力がなかった、華埜井先生のフランス語関係の講座も、もし可能ならば受講してみたいというおもいも抱いていた。

私は東京外国語大学で、詩人でフランス文学者であった安東次男先生の文学の講義を受講し、ご自宅へも伺ったことがあったが、フランス語そのものはほぼ完全に独学であり、初級だけであったが、教えてくださったのは、華埜井先生ただお一人であった。しかし単位の取得はできなかった。4年となった私は、将来の進路がみえないままに、当面可能であった教職に就くための講義がまだいくつかが残り、教員の採用試験も近づいていたため、秋学期からの語学の授業はきつく、3年に編入学後の2年間で卒業および教職のための講義を受講するだけで精一杯であった。

私が華埜井先生からいただいたのは、フランス語初級の教室で私にテキストの音読が回ってきてなんとか読み終えて授業が終わり、ゼミを受けていた俳諧史の佐伯昭市の研究室でゼミの友人と話していたとき、華埜井先生の研究室に参加していた友人が、息を切らすようにして研究室に入ってきて、私に「田中、おまえの発音を先生がほめていたよ」とまるで自分がほめられたかのように、嬉しそうに話してくれたことであった。私も本当に嬉しかった。高校時代から独学で学んできたフランス語を、フランス語の先生が認めてくださった。それは、先生が私にくださった、心優しい受講証明であった。

私は1980年に専攻科を修了し、同年4月から1986年3月まで人文学部の研究生として、引き続き川崎先生から平安朝漢文学のご指導を受け、私自身としても、平安朝の最澄、空海、徳一等の著述を少しずつ読み始めることとなった。専攻科・研究生時代に多くの先生方から賜わったあたたかなご指導は、まさしく数えきれない。

特に専攻科論文として提出した「平安朝漢文学の一考察 ー三教指帰についてー」に関して、中国文学科の小野忍先生が指摘してくださった、論文に対するあたたかくしかし厳しい批評は、多分生涯忘れることはないとおもう。それは私自身が論文を書き進めながら、大きな問題点として認識していたが、それを論文執筆中に表明すると、私の論文の根幹を再構成しないといけないことをみずから熟知していたからであった。論文提出の期限が迫っていた。しかし小野先生の慧眼は、論文一読後、それをすぐに読み取られた。

先生は、「田中君、研究室に来ないか。見せたいものがある」とおっしゃられて、研究室で先生ご自身が訳され、昭和14年1939年に東京文求堂から刊行されたベルンハルト・カールグレン著の『左傳真偽考』の初版本を私に貸与して下さった。「カールグレンの方法は一定程度有効だが、過信してはいけない」というのが、私への先生からの忠告であった。私は先生のおことばを、論文を書くときは、あくまで自分に忠実に書かねばならない、あるいはそうおっしゃられたかったのではなかったか、今ではそうおもっている。論文とは、結論のためにあるものではない、先生は私に人生そのものへの、指針をこめてそうおっしゃられたのではなかったか。

ONO SHINOBU AND BERNHARD KARLGREN

1969年、私が和光の3年に編入学したとき、人文学部長室の先生の前で、編入学の自筆署名をしたときから、また先生の研究室で、近代の中国文学と日本文学についての特講を受講したときから、すでに10年が過ぎていた。私が1971年3月に文学科を卒業し、都立北多摩高校で教員として四苦八苦していた夏、先生からお手紙をいただき、その中には卒業時の立食パーティーに参加していた私を、先生が写してくださった写真が同封されていた。「田中君が写っているので送ります」と書かれていたとおもう。私はその手紙と写真を、一人で悪戦苦闘している私への励ましと感じ、まだほんの少し前なのに、先生の懐かしさや優しさに、不覚にも涙が出そうになった。

川崎先生は私の専攻科論文について、「途中まではどうなるかとおもったが、なんとかまとめたね」と講評してくださった。先生は私にいつもそうした話し方をされた。平安時代の公卿の漢文の日記を少しずつ読み始めて、あるとき先生に、東京大学史料編纂所から刊行されていた『大日本古記録』の中の大書の一つであった、関白藤原忠実の全五巻『殿暦』に挑戦してみようとおもい、全巻をそろえて購入し、先生に「あの本(を読むこと)はどうでしょうか」と先生のお考えを伺うと、先生は微笑むような感じで「もう少し待ったほうがいいね」と一言だけおっしゃった。確かにこの本は歴史事象が際限なく多出し、漢文が少し読めるというだけではどうにもならないものであった。先生との会話で最も恥ずかしかったことの一つだった。

先生の書籍の読み方で、おもわず顔面蒼白となるようなことが幾度もあった。先生はいつも静かであったから、こうした私の書き方を、しかたないか田中君は、とおっしゃるかもしれないが、一つだけお伝えしておきたい。

古文書講読の時間に空海の書簡の解読で、その中に漢文で使われる返り点「レ点」と同一の印が文面に付されていて、先生も「レ点と同じだね」と説明されたことがあった。講義後、研究室で先生にレ点の初出等について尋ねたとき、先生は「初出かどうかはわからないが、御堂関白記に出てくるね」とおっしゃったので、私は偶然にもその頃、藤原道長の日記である同書を毎日カバンに入れて持ち歩き少しずつ読むようにしていて、そのときも全三巻を持っていたので、先生に、「今関白記は三巻とも持っています」とお伝えすると、巻数は今は失念したが、先生がその巻の一つをおっしゃたので、カバンから出してお渡しすると、先生は頁を二、三枚めくり、「田中君、ほらここだよ」とレ点が打たれた道長の漢文の一節を見せてくれた。御堂関白記全三巻は総頁数で、全文句読点だけが打たれただけの、1000頁近くのものであり、私はその1頁を読むのにも必死で苦闘していた頃であった。その難解な書籍のたった一つの印が記され部分を先生は即座に指摘されたのであった。このときは私はみずからの非学などを超えて、まさしく顔面が蒼白になった。先生がお持ちになる、学問に対する凄絶な高みであった。

川崎先生と小野先生は本当に仲が良かった。川崎先生に、小野先生が私に、先生ご自身が訳されたカールグレンの『左傳真偽考』 を貸してくださったことをお伝えすると、先生はいつものほほえみをもって「小野さんは言語の達人だからね」とおっしゃった。小野先生は、1930年24歳でフロイド・デルの『アプトン・シンクレア評伝』を訳され、1938年には改造社からスヴァン・ヘディングの『馬仲英の逃亡』を翻訳されている。1979年に小沢書店から刊行された『道標 中国文学と私』においては、戦前の中国で満鉄調査部に勤務していたおり、ロシア人家族と知り合いになり、その娘さんにロシア語で学習を手助けされたことを述べておられる。

しかし先生の真骨頂は戦後の1948年、千田九一氏と始められた明代の小説『金瓶梅詞話』を、最初は千田久一先生とともに、最終的には先生お一人で1962年に完訳され、平凡社から中国古典文学大系として全3巻で刊行されたことに尽きるであろう。私はその原本を未読の状態で申し上げることは本来は控えるべきであろうが、中国明代の口語さらにはその時代の方言による難解極まるとされた本書を十数年にわたって精読し訳了されたことに敬服せずにはおれない。先生は晩年さらにその改定を考えておられたようで、言語との挌闘を私は目の当たりにするおもいであった。

小野忍先生によってなされた『金瓶梅詞話』訳了については、倉石武四郎先生の以下の評言があったことが、小野先生の最晩年の書である『道標 中国文学と私』小沢書店 1979年、の中に次のように記されている。

「 『金瓶梅』の作者が誰か文学史にとって難題であるように、その言語も難解を極めている。これではせっかくの記念碑も無字碑に等しい。その意味でこの翻訳はロゼッタストーンの解題にも似た意味を持つ。(倉石武四郎氏)」

1979年、私が和光の専攻科にもどった年、先生は元代の元曲および宋代の詞をゼミで取り上げられたことを、私は当年の講義要目で知った。ある日たまたま先生と帰りの電車でご一緒することがあり、先生に今年は難解な元曲と詞を選ばれたのですねとお尋ねすると、先生は、ああした難しいこともしておかないとね、とおっしゃった。私はそのことばを、和光の中国語科の若きゼミ員への先生からの貴重な贈り物として受け取ったが、後年、先生の東大での恩師、塩谷温先生が日本における詞の研究の先駆者であったことを知った。先生はその学統を和光の若きゼミ員たちに託したのだと、今の私は理解している。

この電車での先生との会話が、先生とお話しした最後となった。1980年秋、お元気であった先生は急逝された。青山斎場でなされた先生の葬儀では、川崎先生が葬儀委員長として、檀上中央に粛然として立たれていた。

1982年の秋に、東京大学出版会から『川崎庸之歴史著作選集』全三巻が刊行されることとなり、私もほんの少しだけその編集のお手伝いをさせてもらった。

今その選集の函に付された帯を抄出する。

「 川崎庸之歴史著作選集全3巻
四六版/各五〇〇頁/定価各三二〇〇円

七世紀から一二世紀に至る日本古代世界の営みを、古代人の哀感と生きざま、理想と現実の交錯のなかに見いだし。、多面的かつ立体的に描きあげた、珠玉の名篇の数々を全3巻に集成。

第1巻 記紀万葉の世界  解説・笹山晴生
第2巻 日本仏教の展開  解説・大隅和雄
第3巻 平安の文化と歴史 解説・網野善彦」

著作選集編集の最終期に、選集の概要を示すパンフレットが出来上がり、私にも知人等への配布のために幾部かが送られてきた。和光の先生方等にはすでに郵送されており、大学では親しい友人や親しい大学職員の方々にお渡ししたが、私は先生方のうち、日本中世文学の山本吉左右先生だけには直接お渡ししたいとおもい、先生の研究室に伺った。折よく先生はお一人で在室しておられ、私が「おかげさまで出来上がりましたので」とお伝えすると、先生は本当に嬉しそうに、「良かったね」とおっしゃってくださった。その微笑みが今も忘れられない。

パンフレットには三人の先生方の推薦文が掲載されていた。日本古代文学で特に古事記の研究で著名であった西郷信綱先生、日本中世法制史で優れた論考を著わされていた佐藤進一先生、そして立命館大学で日本古代文化史で多彩な論鋒を示されていた林屋辰三郎先生であった。

私の不勉強を示すこととなるが、山本先生は西郷信綱先生を中心とした研究会で長く研究を続けておられたことをのちに知った。従って西郷先生の推薦文およびその抜粋が川崎先生の著作選集第1巻の帯文となることは、ことのほか嬉しかったのではなかったかと、おもわれる。

山本先生から、私は文学科3年のときに平家物語の講読を受講したのみで、先生がその後展開された先鋭的な口頭文化の実証的研究については、まったく無知であった。山本先生のもう一人の師が廣末保先生であったことも、私はのちに知った。

法政大学国文学会から1990年に刊行された『日本文学誌要』第42巻に掲載された「<座談会>廣末保氏の問題意識をめぐって」において、山本先生は廣末保先生の著作に関連して、山本先生の生涯の主題の一つとなる説教について、廣末保先生の『漂泊の物語』の一節に触れて、以下のように発言されている。

「説教の徒というのは、物語という形式を不可欠の形式として持ち歩いている漂泊芸能民というのが、その「実体」だというのですね。ここでも「実体」という言葉の意味が一度解体されて、新たにその意味がつくられていく。そして、物語という形式と漂泊芸能民との関係性をとらえていく。その関係性の中にこそ、説教の徒の実体があるのだ、となってゆく。」

フィールドワークについて、山本先生は次のように語っている。

「廣末さんはフィールドワークはやらないのですよ。旅をするのですよ。そういう感じでした。旅行に関しては。(中略)なぜかといったら、われわれ自身の中に、昔から伝わってきた伝承的なものが即時的にあったわけですよ。だから近代主義をもう一度批判できるようなもう一つの核が他方にあった、という気がしますね、昔のことを言えばね。」

山本先生は、口頭文化については講演「もう一つの物語」の末尾で、次のように述べられている。

「口頭文化がまだいきいきと機能していた時代には、語りは、今日いうところの文芸でも芸能でもなく、過去の霊と密接にかかわりながら、過去を知ることのできるひとつの回路であった。そして、それらが語られる場も特有の意味をもっていた。中世の時間や空間は、今日のように均質ではなくて、それぞれが固有の意味をもっていたのである。」

川崎庸之先生の歴史著作選集全3巻が刊行されたあとの1982年の秋か冬近くであったとおもうが、ある日和光坂を上る手前で、私は坂を下りていらした山本先生と出会った。先生に挨拶をすると、先生は「田中君、少しお茶を飲んでいかないか」と私を誘ってくださった。そんなふうに下校前に突然和光の先生からお茶を誘われたりしたのは、多分初めてであったとおもう。今もあるかどうかわからないが、1982年にはまだ、和光大学が開学したころからあった喫茶店とも呼べないような小さなお店があった。坂を下りてくると右側で、2、3段の石段を上るとドアがあって中は2,3人でいっぱいとなる小さなやや暗いお店だった。先生が奥に坐られ、私が手前に坐った。

先生がなにを語られ、私がどのようにお答えしたか、今はもうなにひとつ憶い出すことができない。先生がなにか質問をなさったのでもない。向かい合って、私は、静かにコーヒーを飲まれる先生に相対していた。あるいは日々の日常に触れたお話だけであったのかもしれない。ただ先生の静かなたたずまいが今も私の内に残る。先生の安堵のひとときであったのかもしれない。研究生であった当時の私は、先生の講座をまったく受講していなかった。川崎先生の著作選集についてか、あるいは推薦文を書かれた西郷信綱先生のことが先生の内にあったのかもしれない。あるいは、田中君ご苦労さまということであったのかもしれない。

そのときの優しい先生の姿が今も忘れられない。私は1986年3月で研究生を辞し、そののち先生とお会いすることはもうなかった。先生は退官されてまもなく、2007年に逝去された。72歳であった。若き日の盟友、華埜井先生が1976年37歳で逝去されてから、31年が過ぎていた。

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